善意で舗装された道をゆく

舗装された道はとても歩きやすい どこに続いているのかは知らない

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電卓ネイティブ

デジタルをやたらめったらポジティブにもてはやす気持ちの悪いやつらがいる。
世の中の問題はなんでもかんでもデジタルが解決すると思い込み、全ての人にとってデジタルが有用であると決め付け、デジタルが必要であるはずだ、デジタルを使わないやつは人に非ずとでも言いたげなドヤ顔で平べったいガラス板をひたすら擦り上げる、そんなやつらだ。
そういうやつらがそのガラス板でどんな素晴らしい生産を行っているかとこっそり覗きみると、カラフルなドロップを移動させて変な絵に数字を踊らせたりドロップを消滅させ小気味よい効果音を鳴らして喜んでいたりする。
そうやって己の持てる人生の貴重な時間を他人の収益と生活の為に割いてあげているのだろうと思うと全くもって崇高な精神で感心ひとしきりである。

そんな彼らの中には普段から意識が高い人間も多くデジタルネイティブなどという
意味不明な単語
が大好きで、デジタルネイティブデジタルネイティブと呪文を唱えながら自分の子供たちにそれらクソ端末を押し付け、延々とくだらない動画を見させ、アホ面した鳥を引っ張って飛ばすゲームをやらせる。
「そうしないと泣き止まなくて育児が大変なんだから!」などと言い訳をする親もいるが、実はそれはまだマシな方であり、育児って大変ですよね俺も知ってます頑張りましょうね なのである。
それよりも、デジタルネイティブという言葉が大好きであたかも幼少の早い段階から子供たちがデジタルガジェットの類いに触れることでデジタルに対して何かしらの特殊な能力が自動的に身につき、そして育まれると思い込んでる風の馬鹿親もいたりする。そのタイプが最もたちが悪い。普段からイノベーションだのノマドだのスタバだのライフハックグロースハックだのいう言葉が大好きなあいつらだ。 恐ろしいのはそれが正しく正義であると思い込んでいるところだ。ああ恐ろしい。 そうなってしまうとそれはもはや現代における忌むべき邪教の1つであり、つうかまじきめぇのである。

あのな。
そんな事言ったら俺なんかは生まれた時から電卓があった電卓ネイティブ世代だ。なんだかよく分からないうちから親父の持っていた電卓をおもちゃ代わりにして遊び、ボタンをパチパチ押して出てくる数字の羅列を眺めて喜んでいた。こことここを押すと数字がこう増えて、こっち押すと減る。ここを連打すると数字がどんどん増えて最後にはEの文字が表示されて動かなくなる。そういう事をして日々遊んでいた。
他のことがまだままらないような幼い頃から計算をするためのその道具を触り戯れていたそんな俺に、しかしながら高い計算能力が身についたかといったら全くそんなことはない。まったくもって平凡な計算力でしかなく、そしてそれは電卓を触っていたから身についたものではないのだ。
通常の学校教育と、そして何を隠そう 公文式だ。公文式をやっていたからこそ計算力が身につき、今では月額980円の登録制エロサイトに入会すると年間いくらかかるのかなどの高度な計算も、ものの数分で答えを出すことができる。やっててよかった公文式

おおすまん。頼まれてもいないのに急にステマをしてしまった。つまり何が言いたいか。
幼い頃から電卓をいじっているからといって、いつのまにか驚異的な計算力やものすごい電卓捌きが身につくという事は無く、計算力は学校の授業と公文式(あとそういえば学研トップラーン)をやっていたからこそ身についたのだ。ましてや電卓のハードウエア、ソフトウエアの仕組みに “いつの間にか” 精通するような事もない。
結局、しっかりとした目的意識を持って物事を学んだものだけが技能を習得するのであり、幼少の頃から触れていればそのモノに関する技能や知識が自動的に身につくなんていうのはファンタジーなのである。
おそらくそれは言語の習得過程と近藤されていて、いや近藤さんは関係ない、混同されていて、小さい頃から英語に触れていれば英語をいつの間にか習得できるのと同等だと錯覚しているのだ。
幼い頃からデジタルガジェットに触れていればデジタルものをバッキバキに使いこなしプログラミングやハードウエア設計に精通したスーパーハカーになるだろうという幻想を抱いている、
そんな意識の高い馬鹿ペアレンツが多く見受けられるが、それはまったくの勘違いだ。
幼い頃からデジタルガジェットに触れていると出来上がる人間は、
“誰でも使える様に設計されている道具をそれなりに使える人間” であり、
それはお婆ちゃんでも使える様に作られている電卓というツールを普通に使えるだけの
うだつのあがらない俺と同じ “ただの普通の人” だ。
プログラミングやハードウエア設計にはそれを習得するための専門的で大変な学習や特殊な修練が必要なことにはなんら変わりなく、それには “何歳からデジタルガジェットに触れているか” などというパラメータははっきり言って関係がないのだ。(一方でより具体的なプログラミングの教育を早い段階から始めるとそれなりの効果はあるかもしれんが、数学や論理的思考の基礎がしっかり固まっていない、筋力が未発達の状態で教えた場合にどういう人間が形成されるのかは分からん)

そんなファンタジーを信じこみ、自らの子供たちにデジタルガジェットを制限無く与え、子供にとっては不要な刺激に進んで曝す様は、盲目的に代替医療を盲信するのに似た危険で安易な教育・育児方法であり、バッテリーが無くなったら何もできなくなる残念な人間を生み出すだけであり、まあそうなったらそうなったで、そうで無い子が一層活躍できる世の中になるかもしれないからそれはそれでいいのかもしれないネ。ピース。

また別の正義

俺は宗教上の理由から常に林檎信者に罵声を浴びせなければならない厳しい戒律のもとに生きている。
林檎好きが書いたエントリには本当は嫌なのだが信仰上しかたなく泣きながら「氏ね」とか「だせえ(プゲラッチョ」などとぶコメを付けなくてはならない。
信仰上仕方がない事とはいえとても心が痛い。申し訳なく思う。
だがしかし、信仰である以上避けられないことであり、あのようなクソ端末が「さすが!すごい!最先端!安全!」などと言われているのを見たら、「そうでは無いですよ、そんな事はないんですよ、ちっともすごくないんですよ、馬鹿なんじゃないですか、氏んだらどうですか」と優しく声をかけ真実を教えてあげることで、世の中をより良い方向へ誘い、迷える子羊たちを美味しいジンギスカンにしてあげるのが人としての倫理であり優しさなのではないかと思う。

 

いまどき防水もおサイフケータイも付いていないあれもできないこれもできない、そんないにしえのオーパーツのようなデバイスしか使えないなどというのは近代社会に生きる人間にとって明らかな不幸であり、渾身のギャグにしたって笑えない、こちらとしてはそんな不便な思いをしてまで笑わせてくれなどと頼んだ覚えもないし、本当に気の毒に思う。
そう言うと決まってセキュリティガーと壊れた玩具のように繰り返すあけみちゃんが登場するが、そんなもんやたらめったらダウンロード、インストールしちゃうようなヤンチャなヤツはどんなデバイスを持ったって毒を食らい知人にiTunesカードをねだりまくるようになるのは変わらないのであって、まともな人間は利用者が多く安全に使われている
定番アプリを選ぶという最も単純で最も効果の高いセキュリティー対策をするのが当たり前であり、それで必要にして十分なのである。

 

とにかく、そういう濁った目をしてジョブズジョブズジョブズジョブズと気味の悪い音を口から発し、使う度に両手が塞がるデカすぎる端末をどうにか納得しようと言い訳をしながらふらふらと向かってくるバイオ4の邪教徒のようなやつらを、一刻も早く俺の聖なるおサイフケータイサウンドでシャリ~ンと目覚めさせてあげなければならないのである。万が一邪教徒が口からぼげえと放つ毒汁を食らってしまっても防水であり丸洗いできるため全く問題ない。操作を間違えた場合でも、スワイプで戻るなんていう普段から誤爆しまくりなクソUIではなく神の御心である “戻るキー” (しかも下部にあって押しやすいヨ)で素早く戻り、専用キーで長押しや二度押しなどせずともアプリ履歴でアプリ間を移動しながら作業しインテントで連携できる。IMEには当然矢印カーソルキーがあるので数文字前を修正するのにわざわざ全部消しながら戻ったり、極めて小さな領域を太い指でポイントするために格闘する必要も無い。chromeユーザーならブクマはもちろん今開いているタブすら同期する。そもそも林檎上でgoogleのサービスを使うのは、常に手袋をしながら生活するのに似た、これから養っていくという決心の足りないビビりのために防御被膜を装着した時に似た、一枚余計な皮の向こう側の感覚であり、心地よさにおいても生のような直接的な感覚でなく細かい部分が常に劣っている状態であるのだが、信仰のせいで視野狭窄に陥っている邪教徒たちはそれに気付く事もできない可哀想な状態なのである。嗚呼。ついて行く神を誤ったばかりにこの仕打とは、他人の事ながらあまりに気の毒すぎてプゲラスティックインフェルノファイナリアリティーである。

 

まあそんな邪教徒どもが勝手に不幸になる分には自業自得でありざまあであるのだが、かといって放おっておくわけにもいかない。邪教徒は基本的に信仰心が厚く意識が高いので放おっておくと次々に口から緑色、もしくは紫色の毒汁を吐き出しながらライフハック系のブログを立ち上げ、

日々の “気づき” を綴り、代官山のロハスなお店でランチをしてどうでもいい飯の写真を上げ、スタバでラテという名の “ほとんど牛乳” を飲みながら長時間場所を占領し、発売日にはホームレスと一緒にハイタッチをするために路上を占拠し、過剰に立派な梱包で資源を無駄にし、素晴らしいデザインだと絶賛しながら秒速で小汚いケースに突っ込んでは本体の外装を二重にしてまた資源を無駄にし、セキュリティが万全だと思い込んでアカウントを乗っ取られゲームの課金アイテムをクレカで買われ、ゲームしかしてないはずなのになぜかキャリアメールアドレスが漏れ欲求不満の人妻や金が余っている未亡人から大量のメールが届き、自動改札も通れずその場でチャージもできず列を乱し、コンビニでもポイントをスマホタッチで貯められずいちいちポイントカードを提示して時間がかかって列を伸ばし、災害が起きた緊急時にNHKも見られない。
彼らの盲目的な信仰のおかげで周囲の関係のない人間まで巻き添えを食らい被害を受ける可能性すらあるのだ。林檎で無ければもっと多くの
が助かったかもしれない、そんな状況になってからでは遅いのである。

 

そういうわけで俺はこれからも正義のために戦い続けなければならない。人々の命に関わる問題でなのある。
世界の平和を維持するために邪教徒どもの布教活動を牽制し、これ以上被害者が増えるのを抑え、世の中を清く正しくいっそう便利にしなくてはならないのだ。

それにしても
レッテルをべたべたと貼るのは大変楽しいしとても気持ちがいい。みんなもやってみるといいと思う。

 

 

最後の一行を書き終えた俺はmacbookAirを静かに閉じるのである おしまいテヘペロリンチョ



お願いだから電話をかけてこないでほしい

電話がかかってくる事が苦痛でしかたがない。
電話の呼び出しバイブがテーブルを打ち地鳴りのように鳴り響く度に寿命が縮まる気がする。

電話の呼び出しバイブはすなわち、 “いまから数十分か数時間のあいだ貴方の時間を拘束し、くだらない話で身心を疲労させるかもしれません、心の準備はいいですか” の合図であり、
または、 “ちょっと無茶な要件を少ない金銭で依頼するけどどうせ断れないだろうからしっかりやってね”の合図である。
テーブル上の地響きはさながら
地獄の薄ら笑いの悪魔が軽快に吹き鳴らすおめでとうファンファーレのようであり、それを耳にした俺の表情は一瞬にして曇り脂汗と動悸が止まらなくなる。

しかし。それを受けない事には俺は飯が食えない。だからこそ辛い。出たくない。出ればまた俺は自分の価値に値札を付けられる市場の豚と同じ立場に置かれる。

交渉ができるように見せかけてそんなことできるわけがないんだ。めんどくさいやつだと思われたら終わりだ。あっちに依頼した方が安いと思われた時点で終わりだ。またあんな条件で受けなくてはならないのか。自分に突出した才能が無いばっかりに。


電話をかけてこないでほしい。電話を受ける度に自分の価値の低さを確認させられる。
でも仕事をしないと生きていけないから電話をかけてきてほしい。俺に仕事を依頼してほしい。俺の能力を認めてほしい。俺の才能を評価してほしい。
でもできるだけ電話をかけてこないでほしい。


SEOが俺の行く手を阻む

SEOとは、サーチ・エンジン・オマンなんたらかんたらの略であることは業界内ではわりと知られている。

ちなみにセオ・パリッシュはTHEOであり、ここではあまり関係ない。


Theo Parrish playlist - YouTube

 

SEOというのがどこからどこまでのあれなのかは正直よく知らないが、
“とにもかくにもアクセス数を稼いで小銭を得たいが為に、物事の本質を忘れ必死になっているウジ虫みたいな守銭奴による、ウジウジした小手先マジック” の事であると昨夜、枕元に立った父親が言っていた。そうなのか知らなかった親父よありがとう。しかしまだ死んでないのになぜ枕元に立った。まあいい、長生きしてくれ。

 

とにかく、SEOとかいうすげーくだらないあれのせいで俺の大事な人生の時間がすげー無駄にされている気がすげーするんである。
以前述べたように俺には集中力というものが無い。なので、開いたブログやまとめの画面中そこかしこにそんなにいっぱいリンク貼られちゃうともうたまんない。溢れちゃう。

元々調べていた事とは全く関係ない記事を読みまくって日が暮れる。時間がいくらあっても足りない。

氏ね。SEO氏ね。大した中身でもないのに検索上位にくるのとか氏ね。
“気を引くブログのタイトルの付け方” とかマジで氏ね。サイドに人気記事リンクを貼りましょうとかマジで氏ね。あれ?これはSEOとは関係ないのか?まあいい、氏ね。
お前らが釣ろうとしたら、善良な市民である俺はまんまと釣られる。全力で釣られてしまうのだ。
気を引くように作ってるんだから当然だ。そこで釣られないようにする事などクソ難しい、目をつぶって生きていく以外に回避する方法が無い。ふざけんな。

なんだお前らは、俺の時間を大した価値の無い記事で奪って、そんなに嬉しいのか。
いや、俺の事はどうでもいい。
賢くて将来有望な少年少女たちの貴重な時間をくだらないまとめなどで奪って、そのせいで自動車がいつまでたっても空を飛ばなくなって嬉しいのか。そのせいでもしかしたら開発されるはずだった世紀のガン治療薬が出来上がらない未来が来てもそれでいいのか。

いまのインターネッツの酷さ。醜さ。汚さ。
SEOとかいうクソみたいなあれのせいで、子供が街を歩いていたらいつのまにか歌舞伎町に迷い込んでしまう、そんな危険な場所になっている。
そう、まるで歌舞伎町だ。どす黒い欲望が大きな渦を巻き、守銭奴がせっせと罠を仕掛ける。
歩くだけで虫のように寄って来るポン引きをひたすら避けゲーする金曜夜の歌舞伎町の通りと、最近のインターネッツは何も変わらない。
なぜ通る度に毎回耳元で「お○ぱい。お兄さんお○ぱい。」と呟かれるのか。俺はそんなにお○ぱいを触りたそうな顔して歩いているのか。正直、出来る限り触りたい。むしろお○ぱいを触るためにネットで時間を無駄にしている暇などないのだ。ネットよりお○ぱいの方が100億万倍偉い。



行き当たりばったりで適当に書いてたら意味がわからなくなった。おわり。

 


 

頭の良さと集中力

頭の良さってどういうことだろう。

 

俺は人と会話していると言われる事が多い。
「頭の回転が早いですよね。 (そしてかっこいいですね ←心の声)」

ちなみに他人の心の声が聞こえてしまうのは俺の幼少の頃からの特殊な能力の1つだ。

そんなことはどうでもよくて、実際俺は他人よりちょっとだけ頭の回転が速い自覚はある。「なんでこいつら、こんなにチンタラ話すんだろう」と思うことが多い。「それさっきから話が進んでねーじゃん、今晩なに食おうかな」とか「そんな事皆まで言わなくても分かるだろ、昨日の秘書モノは良かったな」とかが頭の中をそこそこのスピードで走り回っている。相手が話そうとしてる話の結論を先読みしすぎて驚かれる。仕事の飲み込みや勘が良いと言われる。初めての事でもコツをつかむ早さや、空気を読むスピードには自信がある。


ただね、いかんせん集中力がない。ほんとに無い。1つのことを黙々と追うことができない。常に思考がぐるんぐるんと巡っていて、そしてちょっとしたキッカケですぐに脱線する。俺にもうちょっと集中力があれば、大学受験もうまくいって主席で卒業し超大企業を “へて” 政界に進出し今頃世界を牛耳っていたに違いないのである。

しかし少し集中力が足りなかったばっかりにそうはなっておらず、今この貧乏臭い文章をモスバーガー食いながら書いている。モスバーガーは電源席があるから居心地が良い。モスバーガーの食い方は難しいけど、上の下の方をこっちに向けて360度回転しひっくり返すとうまく食える。いやそんなことはどうでもいい。頭の回転はそこそこ速いのに、集中力が無いために意識が分散し1つのミッションに対して高い効果を得られない。それがつまり俺は “たいして頭が良くない” という結果になっているのが悔しい。

というかさ。

頭の回転が早かったら、思考のチャンネルがぐるんぐるん物凄い勢いで回っていて、だから周囲の様々なものに意識が飛んで行く。それは当然の事なんじゃないかと思うんである。物凄い勢いで演算し並列でも処理をこなすCPUみたいなもんで、そりゃいろいろな事を同時に考える、考えようとする。
しかしその為、実際に処理スピードは早いはずなのに大したパフォーマンスが得られない。そのエネルギーを一点に集中できないために “そこそこの必要な成果と、あまり関係のない必要でない成果” を得て終わる。つまり “効率が悪い”。

まあそれも妖怪のせいであることは明白なのだが、なんだかんだいってうちの子はポケモンから離れようとしない。ポケモンの圧倒的カタログ数は、吸収したくて疼きまくりの息子の脳を刺激して止まないのだと思う。その点、妖怪ウォッチはまだまだヌルい。
ポケモンには十分な時間を “へて”いる重みがある。 

いや、そんな話がしたいのではない。

 

しかしながら、世の中のいわゆる “頭のいい人” というのは総じて極めて高い集中力を持っている人が多い(ように見受けられる)。集中力が高いから受験勉強に没頭できて成功し良い大学に入る。集中力が高いから物事を深く考察し、素晴らしい論考をする。脇道に反れず1つの処理、1つのミッションに対して高い効果を得てうまくいく。つまり “効率が良い”。 

というかむしろ、頭の回転の速さなど関係なく集中力の高さこそが頭の良さ、能力の高さなのだろうか。

 “集中力が高い”というのは俺のイメージでは “そのルートを進んでいると無数に現れる分岐点、それらをいっさい無視できる能力”  なのではないかと思っているのだが、そもそもそのイメージが違うのだろうか。

なぜそんなことが可能なのか。集中力が高い人はなぜ意識が他に飛ばないのか。周りに何かあったらそれについて考え始めたり想像し始めたりしないでいられるのはなぜなのか。
むしろ逆に集中力の高い人は頭の回転があまり早くない、という可能性もあるのだろうか。

モスバーガーうまい。となりの席の、愛人と旅行計画を立てているBBAがうるさい。